on that occasion 散文 エンチャントムーン

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散文

過去に書いた作品をいくつか掲載しています。

エンチャントムーン

その人の名前には「月」という文字が入っていました。
僕より少し歳上。
ちょうど月に人が降り立った年に生まれたからだとか。

出版社で働いていた頃。付き合いで、とあるイベントに参加しました。
少数民族のなんちゃらみたいな。
よく分かりませんが海外の偉い方が来日されて、その方を囲んでの会。
途中、舞があったり。質疑応答の時間があったり。

通訳の女性がいまして。
偉い方の隣でゴニョゴニョと日本語に訳しておられました。

付き合いで参加しただけなので、会が終わって。さて、帰るかと。
すると、その通訳の女性が近づいてきました。
「よかったら後で少しだけお茶しませんか?」

よく話す人でした。
内容はほとんど覚えていないので、多分中身のない、
とりとめのない話だったと思います。
そもそもなぜ僕をお茶に誘ったのか。
「さっきの会があまりにも面白くなかったので」
だそうで。

それから数カ月後。
僕はその人をバイクの後ろに乗せて夜景を観に行きました。
ホタルがあちらこちら、うっすらと青い光を浮かべていました。
空には丸い丸い月。

「私、満月嫌いなの。心が乱れそうな気がして」

彼女との日々は、毎日が喧嘩でした。
8割が喧嘩。で、残り2割は笑っていました。
その2割があまりに楽しくて。
8割の喧嘩は全力でぶつかり合っていたと思います。
それだけ信頼していたのでしょう。

そう。彼女が初めて僕を家に呼んでくれた時。
時間がなかったので、あまり凝ったものはできないけど、と。
カレーライスを作ってくれました。
ちょっと待っててね、と言われ。
僕はその時何を考えていたかな。
なんせ手持ち無沙汰で、落ち着かなかったと思う。

しばらくして。食卓に呼ばれて。
あまり凝ったものできなかったんけど、って感じで
カレーライスが出てきました。
ありがとう、って言って。
スプーンで食べ始めて。

人間って面白いもんです。
感情ってコントロールできない時があるんですね。
なんで僕は泣いてんだろう。
離婚から1年ほど経って。
まさか僕がこういうシーンをまた経験できるとは。
彼女は笑ってました。
うん。あの時はそれくらいがちょうどよかった。
そう言えばあの時、いただきます、って言ってなかったような。
なんせ奥さんがどこかへ消えて。
そういうのを言うシチュエーションがなかったもので。

彼女が今どこで何をしているのか。
僕はよく分かりません。
きっと元気で。仕事に恋に。
彼女らしく一所懸命に生きているのだろう。
僕も今の自分を誇りに思っています。
毎日一所懸命に生きています。
だから、これでよかったのです。

ただ。時々。ふわっと。
空に浮かぶ丸い丸い満月を観てしまった時。
あの頃を思い出して、ほんの少し
笑う自分がいます。